自分の人生を自分として生きられない

興味を持っていただきありがとうございます。

こちらのページでは、

これを書いている現在の私は42歳なのですが、後半生(21歳、22歳〜)について綴りたいと思います。

当時生きていた現実を出来るだけ正確に表現しています。

振り返れば、違う見方ができるものも中にはあると思いますが、敢えて当時の心境を思い出しながら書いていますので、普通に考えたら間違えていると思う内容もあると思います。

その場合は、そういう状況にある時にそういう考えを抱く人間もいるんだなくらいに思ってください。

※不快な内容が含まれている可能性は否めないのでご注意ください。

精神障害者としての人生

気がついたらトイレと布団しかない、扉にはドアノブもついてない密室にいて、話によるとあの日から何日か経過していたそうでした。

自分の中では、しっかり眠れたので思考も戻っていたと認識していたのですが、

病院側としては大量の薬を飲むように言ってくるし

外には出られないし部屋には何もないし、

何の説明もなくその状況に放り込まれたと言う認識だったので、

部屋から誰もいなくなって閉じ込められると、ここから出せと大声を出したり、基本的にスタッフは全員無視をするのが当たり前なのでそれにも腹が立って扉を蹴ったりとかしてしまいました。

それが精神科の「保護室」と呼ばれる環境でした。

暴れたり叫んだりしたら余計外に出られないという仕組みです。

一度退院までの行程を経験していたとしたら仕組みがわかるので、

(精神がまともな状態においては)どうしたら最速で抜け出せるかというのは簡単なのですが、

全く知識がない、誰も相手にしてくれない、相手をしてくれたとしても話が全く通じない、自分の言うことは全て拒否されるのに対し相手の要求は全て呑まないといけないと言う状況。しかも、面会に来てくれる家族でさえも、医師の言うことが正しいと思うし、自分の心の味方なんて1人もいません。

自分は保護室には何ヶ月もいることになりましたし、この時の入院も一年近くになってしまいました。

自分の意思を持つことが許されず、周りの様子を窺って言うことを聞くことによって自由を手に入れられるという、言葉にしてみたらなかなか悲惨な考えが自分の世界の常識になりました。

退院したのは22歳の頃ですが、入院前の自分の感じてた世界と、退院後に感じた世界のあり方は全く違った感覚で、しばらくは外で人と接するのもどこか怖かったです。

その精神的な変化だけではなく、身体的にも不利な状況が何年も続きました。

当時は現在よりも投与される薬の量がとても多く(一日に一体何十錠呑まないといけなかったのか)、退院時点では副作用により

・気を抜くとすぐにヨダレが垂れてくる

・体が震える

・階段を上り下りするときに足が思い通りに動かずにこけそうになるので恐怖を感じる

・手が震えるし、いきなり変に力が入ったりして文字がうまく書けない。

と言った状況。

中でも、文字が書けないのが辛くて、自分の名前すら書けなくなっていたし、字を習ってはいないなりに学生の頃にはクラスメートから「綺麗な文字を書くね」と言われることもあったのですが、、。

今でも覚えているのが、病院に行って問診票を書くときに自分なりに挑戦してはみたのですが、

やはりできなかったので受付の方に

「すいません、手が震えて書けないので代筆をお願いできませんか?」

と言わなければならなかったことです。

当時22歳の自分にとっては、恥ずかしいやら悔しいやら複雑な気持ちでした。

入院生活で体力が落ちていたのもありますし、薬の量もなかなかのもので副作用はなかなか消えないですし、ただ生活するというのもやっとという状態で、心では普通に働きたいと思っても、主治医の許可もなかなかもらえないのもあったし、体も思うように動かせませんでした。

話は変わりますが、病院の意見として、大好きなビリヤードを夜にすることは禁止されていました。

しかし、本当にビリヤードを楽しみたいのであれば、上手い常連さんは基本的に夜に来ることが多いので、楽しみの半分以上を奪われたようなものでした。

なかなか薬が減らないことや、自分の意見を言えない状況、自分の身体が自分のものではない感覚で過ごす日々の中、

どうしても諦められなくてビリヤードの店に夜通うようになりました。

しかし、薬の量も多い状態で、夜行動する生活には体も心も耐えられず、また入院することになってしまいます。

また数ヶ月を消費してしまいました。

この入院で、自分の本当の気持ちを言うことが許されないと言う考えは一層強化されました。

精神科という空間において、相手がおかしいと思う言動を自分に対してしてきた場合でも、それに対して怒りの感情を表現すると、患者にとっては不利に働くという印象が強いです。

上下関係がはっきりしている感がすごいです。

医師の権力が強すぎるため、患者は一見平穏な状況を得るために自分を殺して従わざるを得ない。

通院の時に、反抗すれば数の力で押さえ込まれて入院。

入院中に反抗すれば、保護室に閉じ込められる。

正直な感想はそんな感じです。

入院中、医師に体調を尋ねられ、「元気です」や「調子がいいです」と答えると、「まだまだ休息が必要ですね」と返され、

「今日は気分が落ち込んでいます」というと、「もう少しで退院できますね」と言われます。

自分の感覚が全く通じないし、別に詳しく状況を説明してくれる人がいるわけでもなく、、

自己肯定感も自己効力感も下がる、自分の存在とは何なのかよくわからない、自信なんて持てないし、自分は嘘をつくことでしか生きてはいけないのか、、。

そんな考えが自分に浸透していきました。

結局、自分は社会復帰というか、働き始めることができたのは30歳くらいでしたかね?

最初はA型事業所と呼ばれる場所で一年ほど働き、

その後ハローワークの職業訓練で、Microsoft officeの勉強をして(一応MOS取りました)、

なかなか就職はできませんでしたが、実家近くの工場にて、障害者枠で雇っていただきました。

一年くらいしてから、プライベートでお世話になっている方から一緒に働かないかと誘いを受けました。

自分は工場での仕事と人間関係が気に入っていたので、そのまま働きたい気持ちがありましたが、

その頃私は結婚していたのですが、当時の妻がその人の仕事をやってみたくて一緒に行ってくれないかと頼んできたので、転職することになりました。

県内ではありますが、まあまあの引越しを含む転職でした。

自分としては未経験の仕事でしたが、自分なりに一生懸命やっていたのですが、周りの仕事についていけない感覚がありました。

これは精神薬を服薬している方で、認識のある方のみの感覚になりますが、頭で思っている通りの動きって再現できないんです。

自分の頭の中で、次はこういう動きをしたら作業がうまくいく、ということがわかっていても、体が思い通りに動きません。

脳の働きを何かしら阻害する作用が働いているので、こういうことは当然と言えば当然ですが、、。

自分の体験でいうと、手の震えと意図しない動きにより自分の名前さえ書けないということがあったので、それが軽症になっているものの、本来の自然な状態ではないというのでイメージができますでしょうか?

ちなみにですが、工場で働いていても、サボりたいわけではないのですが、薬が強くて眠かったり、疲れやすくて休憩を入れないと作業ができないということはありました。

流石に身の危険を感じたので、薬の変更を求めて少しは良くなったのでしたが、、

 

この薬のことに関しては、言い訳として片付けるには、当人にとって残酷なものだと思います。

精神が病んでいるから、やる気がなくて働かないだとか、言い訳して逃げているだけだとかいうのは、状況が異なります。

一度精神科医に尋ねたことがありますが、精神薬を飲んだことがあるのかという問いに対して、「研修の一環として飲んだことがありますが、感覚が鈍った気がします」と答えてます。

まあ中には、飲んだけど全然変わらないと言っていた意味不明な医師もいましたが、、、

全く変化の起きないものを薬として処方するのもよくわからないですが、病気の人には効果があるといいたいんですかね?

(脳の働きを抑制するなどの作用を持ったものを人が摂取して、変化がないというのは自分としてはよくわからないのですが、)

プラセボでない限り、たとえ健常者でも精神薬を摂取し続けると、「思い通りに動けない」という本当の意味が理解できると思います。

話は戻りますが、転職後、結局誘ってくれていた人に迷惑をかける(仕事がこなせなくてイライラさせていた)ため、辞めることになりました。

その時期ですが、当時の妻が浮気をしていたり、私の名義のカードを使い込んだりしていたことが発覚し、離婚しました。

お金の話を少しすると、障害者雇用というものは、最低賃金の時給であったりすることが多く、当時の職場での上司(10歳くらい年下)も私の給与明細を見た時に、(これは想像ですが)それまでは私があまり働きが良くないのに給料を普通の人と同じくらいもらっていると思い込んでいたのか、金額の少なさを知って少し態度が変わったような印象でした。

なぜこの話をしたかというと、その程度の給料で、夫婦でいるのを前提にして車を買っていたり(公私共に必要ではあった)したのですが、カードの使い込みなどもあって、自分名義の借金がまあまあありました。

借りては返すというループでした。障害者雇用でもらえる給料で生活しつつ返済するのも難しく、ダブルワークなどもしましたが、結局本職もバイトも続かず、入院する羽目になりました。

短期で退院して、食費も足りないのに精神薬などに払うお金も腹立たしく感じていた私は、通院もしなくなり、塾の講師のバイトや、介護の仕事などを始めました。

精神薬がないため、身体も動くし、頭もスッキリしていたので、しばらくは問題なく働けていました。

ところがある時、大事に思っていたまだ若い知人が亡くなってしまいました。

とてもショックでした。

それでも、生きていかないといけないので仕事も頑張っていたのですが、、。

当時は介護の仕事だけに絞っていて、基本深夜働いていました。

深夜は人数が昼に比べて少ないので、割と一人で仕事をこなしていかないといけない場面が多いのですが、ある夜、仕事中に腰を痛めてしまいました。

でも他の人も呼べる状況ではないし、とりあえず今やっていることは全て終わらせないと同僚はともかくとして利用者さんに迷惑がかかってしまう。

まぁしんどかったですが、その日はなんとか乗り切りました。

しかし、腰の痛みは無くなることはなく、それどころか首などにも痛みが出始めて、仕事の効率が一気に下がり、正確性も早さも無くなってしまいました。

知人の死による精神的なダメージと、腰から首にかけての身体的ダメージに、仕事ができなくなるという自信の喪失。

結構限界でした。

仕事ができなくなったので、問題なくできていた時は普通に接してくれていた同僚も冷たい目で見てくるようになり、しんどかったのを覚えています。

少し話は逸れますが、そんな中でも利用者さんのトイレ掃除はできる時にしてあげるということは徹底していました。不思議なんですが、他の職員は誰も掃除しなかったんです。明らかに汚れていて、自分が使うと考えたら虐待されてるのかと思わずにはいられないレベルの汚れがあったにも関わらず、です。

職員用のトイレはもちろんというか、そういう表現もおかしいですが、普通に綺麗にしてあったと思います。

自分も何もかも完璧にはできてはいませんでしたが、特に腰を痛めて以降の仕事は酷かったので、、、。

トイレ掃除に関して一度も誰にもお礼を言われたことはないですが、いい自己満足だと思ってます。

なんとなく予想はつくと思いますが、結局その少し後に、利用者さんに迷惑かけると思って退職しました。

精神的にも肉体的にも、限界だなと感じていて、ある台風の夜に待ってた睡眠薬を全て飲んで死のうとしました。

ところが、数時間後に目を覚まし、

その後1週間で合計2時間しか寝られないという地獄を味わいました。

当然のように頭がおかしくなって、色々あってまた入院です。

その入院中に、平成から令和になりました。

退院後、プログラミングの勉強を経て、今の会社に勤め始めました。

現在では自分の中では得意な方であるweb プログラミングであったり、割と自分にはあっているRPAの仕事をしています。

しかし当初は会社に研修に行かせてもらうと決まってから勉強し始めたC#という言語を使った業務に挑戦しました。

簡単なものならまだできたのですが、少し複雑なものになると、先輩に都度確認しないことにはなかなか進められなかったりと、プログラミングに感じていた楽しさも薄れ、自信をなくしてしまいました。

自分には何もできないという気持ちが大きくなっていました。

そばで支えてくれた存在さえも大切にできなくなっていました。

何もかもが当たり前ではなく、有難いことであるということを、言葉では理解しているつもりでも気持ち、心が理解できなくなっていました。

変わりたいのに変れない日々は、やがて温かい存在を遠ざけることとなり、孤独がやってきました。

この出来事は、自分にとってとてもショッキングな出来事であると共に、自分の生き方を変える大きな転換点となりました。

もう少しお付き合いいただけるなら、以下をお読みください。

自分を取り戻す話

     
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